棟持猿(西本宮楼門)

神猿について

神猿まさるについて

神猿さんは魔除けの象徴

猿は全国各地に生息しておりますが、古来より日吉といえば猿といわれ、魔除けの象徴として大切に扱われるようになりました。「まさる」は「魔が去る」「勝る」に通じ、大変縁起のよい神のお使いです。

全国約3,800社の分霊社と神猿

全国には「日吉神社」「日枝神社」また「山王神社」とよばれる日吉大社の神様の御霊みたまをお分けした「分霊社」が約3,800社ございます。それらは方除の神様として、武士がお城や屋敷を建立するにあたり分霊されました。また「山王」とは日吉の神様の別名で、天台宗・比叡山延暦寺の守護神としての性格を意味します。それを「山王信仰」といい、天台宗のお寺の広がりと共に日吉の神様がまつられました。こうして全国に分霊社が増えるに伴い、「日吉さんといえばお猿さん」といわれるほど、魔除けの神猿さんも広く知れ渡りました。

境内の神猿さん

1 猿塚さるづか

山王鳥居の立つ「総合の坂」の参道脇に、「猿塚」と呼ばれる大きな石組がございます。これは古墳の石室の蓋が露出したものです。境内には約70基もの古墳が確認されており、「日吉古墳群」として遺跡に指定されています。出土品から6世紀中頃から後半と推定されます。この古墳の穴は唐崎(日吉大社ゆかりの湖岸)まで通じていることや神様のお使いの神猿さんが年老いて自身の死期を悟ったときに、自ら猿塚の中へ入っていくという伝説がございます。

猿塚(さるづか)の画像

2 神猿舎まさるしゃ

猿は古くから境内で飼われており、既に室町時代の記録にも登場します。江戸時代の絵図等には「猿飼所」「猿厩」と記されています。『日吉山王権現知新記』という江戸時代の記録では、神猿さんの食費として「一石(いっこく)」(大人一人が一年に食べる米の量)の予算が割当てられています。小さい体でも、一人前のお給料を貰っていたのでしょう。

神猿舎(まさるしゃ)の画像

3 西本宮楼門 棟持猿むなもちさる

西本宮の楼門の軒下四隅には、それぞれ違ったポーズの神猿さんがお参りに訪れる方々を見守っています。

西本宮楼門 棟持猿(むなもちさる)の画像

4 西本宮楼門 蟇股かえるまた

「蟇股」と呼ばれる楼門二階部分の正面にも3匹の神猿さんが、松の木の上で遊ぶように楽しげな装飾が施されています。

西本宮楼門 蟇股(かえるまた)の画像

5 猿柿

「マメガキ」という渋柿で、神猿さんが好んで食べることから、いつの頃からか「猿柿」と呼ばれるようになりました。実際には比叡山からお猿さんが降りてきて、柿の実を美味しそうに食べます。

の画像

6 樹下宮じゅげぐう神輿みこし 重要文化財(非公開)

日吉大社にある7基のお神輿のうち、「樹下宮」のお神輿には、松の上で楽しく遊ぶ神猿さんの装飾が施されています。勇壮・荘厳なお神輿に神猿さんを描くところに、神猿さんを敬う古人の心が伺えます。

神輿の画像

7 猿の霊石

東本宮参道の脇に霊石がございます。正面から見た凹凸おうとつが、しゃがみこむお猿さんの形にそっくりなので、「猿の霊石」と呼ばれています。

猿の霊石の画像

8 猿の馬場

八王子山山頂の奥宮への参道の名前です。

9 「日吉山王垂迹神曼荼羅すいじゃくしんまんだら」の神猿(非公開)

日吉大社の神様を描いた江戸時代の掛け軸が残されており、そこには3匹の神猿さんが描かれています。

申の授与品

神猿守の画像

神猿守

1000円

神猿みくじの画像

神猿みくじ

茶:500円
金:800円

神猿絵馬の画像

神猿絵馬

500円

開運鈴の画像

開運鈴

500円

学業守の画像

学業守

500円

子供守の画像

日吉小守

1000円

交通ステッカーの画像

交通ステッカー

500円

神猿蒔絵守の画像

神猿蒔絵守

500円

木彫神猿の画像

木彫神猿

大:3000円
小:1500円

神猿土鈴の画像

神猿土鈴

1000円

日吉大社と神猿

猿は動物の中で親しみのある愛嬌者で、猿廻しでの芸は、観るものを楽しませ喜びを感じさせてくれます。日吉大社と猿との因縁は深く且つ遠いものであり、その霊験につきまして様々な伝説や不思議な故事、吉凶禍福を示した事などが、古い書物に書き記されています。

其の一 京の都を守る神猿

延暦13年(794)、都が平安京に遷都されました。このとき、京都の東北の鬼門に比叡山があり、鬼門の山があるのは地相が悪いと反対の声が上がりました。しかし、鬼門である比叡山にはすでに日吉大社の神様と延暦寺の前身となる寺があり、神仏によって守られていることからこの問題は解決し、京都が都に選ばれました。

京の都を守る神猿写真

▲ 京都御所の鬼門にあたる猿が辻にある、魔除けの神猿

其の二 山王七猿の和歌

「七猿歌」は天禄4年(973)、第18代座主の慈恵大師良源が日吉山王権現に願文を捧げられたとき、権現の使いである猿に因んで「さる」を詠みこんで作られた七種の歌の処世訓です。天台教学の要諦である【諸法実相】、【三諦円融】内蔵した御歌といわれ、〈宇宙の道理の相〉を心を鎮めて観得することを念じて詠みこまれたものといえるでしょう。

一、つらつらと うき世の中を思うには まじらざるこそまさるなりけれ
二、見聞かでも いわでもかなわざるものを うき世の中にもまじるならいは
三、つれもなく いとわざるこそうかりけれ 定めなき世を夢と見ながら
四、何事も 見ればこそげにむつかしや 見ざるにまさることはあらじな
五、きけばこそ 望みもおこれはらもたて 聞かざるぞけにまさるなりけり
六、こころには なにわのことを思うとも 人のあしきにはいわざるぞよき
七、見ず聞かず いわざる三つのさるよりも 思わざるこそまさるなりけり

山王七猿の和歌写真

其の三 屋敷の守りの神猿さん

京都御所だけでなく、武士も城や屋敷を建てるにあたり、建物の鬼門に神猿をおまつりしました。現在も旧小笠原邸やオーストラリア大使館(旧蜂須賀邸洋館)に残されています。

屋敷の守りの神猿さん写真

▲ 旧小笠原邸

其の四 日吉大社の神猿の伝説

その1)
文永元年(1264)、延暦寺が神輿を繰り出して強訴ごうそ(武装して朝廷に訴え出ること)に及ぶ際、僧兵が西本宮楼門東側の回廊に松明を持って登ったところ、大きな猿9匹が出てきて僧兵の松明を取り上げた、と延暦寺の公式記録『天台座主記』は伝えています。

その2)
天皇が病にかかると神猿も同じ病にかかるといわれ、江戸時代初期、後西天皇が疱瘡になったとき、神猿も疱瘡になり、天皇の身代わりになったという話が伝えられています。

その3)
円山応挙の高弟、長沢芦雪ながさわろせつが描いた親子(母子)の「猿図」の絵馬。寛政4年(1792)に日吉大社に献納されましたが絵具の剥落が著しく、平成27年、成安造形大学に復元模写をお願いし、奉納当時の優美で絢爛な姿を再現して頂きました。

「猿図」の絵馬の画像

▲ 長沢芦雪 「猿国」

行事 今に伝わる猿楽(申楽)「能・狂言」

明治になるまで、能と狂言を合わせて「猿楽(申楽)」と呼ばれていました。室町時代、近江猿楽の山階やましな・下坂・比叡の三座が猿楽を奉納していました。現在でも年に2回、能と狂言の奉納がございます。

能 大戸開神事にて 元旦 午前5時〜の写真

▲ 能 大戸開神事にて 元旦 午前5時〜

狂言 講員大祭にて 11月第2土曜日の写真

▲ 狂言 講員大祭にて 11月第2土曜日

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